
うつみ内科クリニック
院長
内海 敏雄(第5期)
卒業して35年になります。光陰矢のごとしを実感するこの頃です。この度、近況報告の依頼が舞い込みました。良い機会なので卒後の自分を振り返ってみようと思います。
私は昭和61年に島根医科大学を卒業し、広島大学医学部第二内科に入局。研修医、過疎地医療、大学院を経て平成6年に国立療養所柳井病院に赴任しました。勤務医として外来と入院業務をこなし、入院患者は多いときは40人以上担当することもありました。重症者が増えると昼夜関係なく病棟へ向かったものです。元来往診が好きで、病院を脱出しては患者宅を訪問していました。往診をする医師は院内で私だけでした。重症者をかかえると往診になかなか行けず、やっと行けたと思ったら入院患者が急変し、代診の同僚医師に迷惑をかけることもありました。勤務医ゆえの制約、自分流医療ができないことへのジレンマ、体力の限界などを感じながら働いていたものです。
平成13年頃、子供が硬式テニスを習い始めた縁から私もテニスを始め、たまに市民大会へも参加するようになりました。テニスの世界は厳しい、コートの中では誰も助けてくれません。ナイスボールを打てたときは自分を褒めてやるし、ミスしたらすべて自分の責任。試合中はコーチも身内も全くアドバイスできません。すべて自分で対処を考え、行動するしかない、そのことが私にとっては新鮮でした。今まで団体スポーツの野球に没頭したことはあります。その中ではチームプレー、自己犠牲の精神が求められます。それはそれで面白かった。仲間同士で助け合う美徳、喜びがあり、目標を達成した時に仲間と飲むビールは格別でした。しかし、そういった楽しみ方しか知らなかった私には、テニスの自立精神がより新鮮に映りました。勤務医生活は野球のようなチームプレー、残りの人生はテニスのような自己責任の世界で働いてみようという誘惑に駆られました。勤務医生活に疲れ燃え尽きようとしていたから、余計にそう思ったのかもしれません。
思い立ったはいいが、世間知らずの身にとっては開業への道のりは平坦ではありませんでした。融資の受け方、諸手続の方法、人を雇う手続き、医師会への仁義など、わからないことだらけです。途方に暮れ、うろたえる私を放ってはおけないという慈悲深い周囲の方々のおかげで、平成18年に「癒し」をテーマとした「うつみ内科クリニック」は作られました。患者さんに「癒し」を感じてもらえるよう、屋内は木調を基本にし、待合室に木漏れ日が入ってくるように中庭に木を植え、常に癒しの音楽を流しています。トイレは車椅子の人もゆったり使えるようにスペースを広くしました。
開院して早くも15年5ヵ月の歳月が流れました。コロナ禍で大変なこともありますが、スタッフにも恵まれ、なんとか地域医療を実践しています。いつの間にやら還暦も過ぎ、孫もいるような年齢になりました。心技体を保ちながら、やれるところまでやっていこうかなと考えています。
最後に一言、母校のおかげで医師免許を取得でき、自分のやりたかった医療に携わることができました。充実した人生を送ることができています。母校には感謝しかありません。
これからも母校の益々の発展を祈っています。