柴北 宗顕(第14期)
近 況 報 告
しばきた消化器外科・肛門クリニック
柴北 宗顕 (第14期)

同窓の皆様、お元気でしょうか。14期生の柴北です。この度は萌雲会の寄稿の機会をいただき誠に有難うございました。折角の機会ですので現在までを振り返りながら近況をご報告させていただければと思います。
私たち14期生は共通1次試験最後の年の平成元年に島根医科大学に入学いたしました。平成元年といえば、島根県選出の竹下登氏が総理在任中であり、また地方行政に企業サービスを取り入れることを訴えた岩国哲人氏が出雲市長に就任し、出雲駅伝の誘致や出雲ドームの建設を提唱。我が島根医科大学においても日本初の生体肝移植が行われ、島根県、あるいは出雲市が非常に注目された年であったと記憶しています。
学生時代はバドミントン部に所属。練習のきついクラブではありましたが、すばらしい先輩や後輩に恵まれ、とても充実した学生生活を送ることができました。スキーや釣りで山陰中を車で走り回るだけでなく、カラオケボックスやパチンコ店に友人と入りびたり、その店の2号店ができるたびに自分が建てたのではと思うほどバイト代をつぎ込む日々が続きました。再試の常連で年がら年中試験を受けていましたが、“進級は1つの優より3つの可”をスローガンにかろうじて6年間で学生時代を終えることができました。
国家試験の前に実家が阪神大震災にて被災し、卒後地元に戻るか悩みましたが、永末先生をはじめとする諸先輩方のような外科医に憧れて第2外科に入局させていただくことにしました。同窓の入局者は学生時代からの友人であった上田修平君と2人だけで、とにかく忙しい研修医生活であったことを記憶しています。関連病院での研修後に大学院に入学。大学院3年目終了時に当時の下山学長、永末病院長の許可をいただいて飛び級卒業をさせていただき、最後の1年間を使ってドイツのミュンヘンに留学いたしました。異文化の国で臨床、研究に触れられたことは、自分にとって大きな財産になるとともに、結婚して間もない妻を連れて車や電車でヨーロッパ中を旅して回れたことも今ではできない貴重な体験となりました。ドイツ語は全く話せませんでしたが、1言えば10理解してくれるオーストリア人の留学生ヨハネス君の助けを借りて、無事にドイツでの生活を終えることができました。
帰国後も第2外科の先輩方には愛情をもって外科医として育てていただきました。大腸肛門疾患にて当時から先進的な治療を行っていた熊本県の大腸肛門病センター高野病院での勤務は今後の自分の専門を決定づけるものとなり、その後生まれ故郷の神戸にある川崎重工関連の川崎病院への赴任を転機に、47歳時に開業に踏み切ることにいたしました。神戸市内のハーバーランドという激戦区にて意気揚々とはじめた開業医生活でしたが、スタッフの確保や経営管理、1人で検査や手術を行う重圧等で“開業医ってこんなにしんどいものか”と思う日々が続きました。現在、開業5年目を迎え、まだまだ開業当初の緊張感は持続している状態ですが、萌雲会の諸先輩方の投稿文にふと萎えそうになるモチベーションを刺激していただくことも多く、人生の教科書として毎年送られてくることをとても楽しみにしています。
最後となりましたが、現在の私の家族は妻と大学1年生の息子、高校1年生の娘の4人と週末に私を散歩に連れて行ってくれる7歳の柴犬一匹です。今春、高校を卒業した長男は島根大学医学部に入学いたしました。息子には1人暮らしを勧めていましたが、その地が出雲であることをとても嬉しく思っています。私と同じバド部に所属したようで、たくさんの友人とともに勉強に?遊びに充実した生活を送れているようです。萌雲会の諸先輩方にお世話になることも多々あるかもしれませんが、今後とも親子ともども宜しくお願いいたします。