鈴木 邦夫(第5期)

島根医大生だった私。大好きな人達との思い出。

綱島鈴木整形外科 院長     
鈴木 邦夫(第5期)

 

鈴木 邦夫(第5期)

 横浜で整形外科の診療所を開業している。
 リハビリテーション科医の家内(明子)、障害を持ちながらがんばっている長男(智博)、美術大学院生の長女(晴絵)の4人家族。皆、元気。
 今では、島根での出来事は一瞬の夢のよう。懐かしい人々を思い出しつつ、青春の日をふりかえる。
 昭和55年の2月、東京駿台予備校生であった私の隣の席の柴崎君から(島根医大を受けるよ。鈴木君も行こう)と誘われ、彼の宇都宮高校の同級生の仙波君と三人で島根医大に挑戦した。東京から出雲行きの夜行列車に乗り込んだ。暗い車窓にうつる自分の顔をみていた。翌朝、車窓を流れる宍道湖を見て(遠くに来たものだ)と。木造の出雲市駅舎。階段がギシギシ鳴った。駅前の紙屋旅館に宿泊。その玄関で中上君と知り合い、互いの健闘を祈った。試験は何とか頑張れた。静岡県清水市の実家で受験結果を待つ私に(イズモタイシャニサクラサク)の電報が届き、両親や祖父母に笑顔の報告。柴崎・仙波・中上君も合格して共に喜んだ。
 私は五期生。新入生オリエンテーションでは、(島根医大創設に400億円かかり、授業料も国からの援助がある。しっかり勉強しなさい)と発破をかけられた。田んぼの中の新しい校舎。田植後はきれいな緑の絨毯が大学を囲んだ。生物の実習では(解剖に使うカエルを田んぼでとってくるように)との指示がでた。同級生の梅野君か内尾君にお願いした。夏の夜は下宿の外ドアにアマガエルやイモリがはりついた。蛍の乱舞も見られた。
 サンロード中町のアーケードのスピーカーから、松田聖子のデビュー曲(えくぼの季節)が流れていた。1980年12月8日、県立中央病院前のガソリンスタンドのスピーカーから、ジョン-レノンが凶弾に倒れたニュースが流れた。ジョンのクリスマスソング。冷たい雨がふっていた。
 印象深い人々との邂逅。
 恩師では特に下山先生(第一生化)、沖先生(第二解剖)、小林先生(耳鼻科)。
 下山先生はスマートな大阪人。悩んだ時期があって、下山先生に相談に行ったところ、(いつでも研究室にきなさい)とのこと。翌日から出入りすることになった。当時助教授の谷河先生、大学院生の土屋先生、大阪医大から研究生の北村先生、野村先生がいた。昼にはお弁当まで出してくださり、でも先生方と同じテーブルで見苦しくないように食べるのがやっとで、味はわからなかった。フリーの机とイスが置いてあって、夜は同じような学生(江口さん、古屋さん)と勉強した。半年ほど通った。講義や試験では厳しい先生方が、素での付き合いではこんなに優しい人達なのかと驚いた。当時はそんな避難所があった。
 沖先生は小柄で厳格な山口人。私の担当教官をしてくださった。時折見せるやさしい笑顔をおぼえている。今から三年ほど前、山口の先生の家に電話をした。先生は90歳位のお年。“島根医大卒業生の鈴木邦夫です。わかりますか?”と告げると数秒おいて“ああ、わかりますよ。で、今日はどうされましたか?”との返事。その瞬間、泣けてしまって。40年ぶりの電話越しの声は当時のまま。耳の遠さはあるにせよ頭はクリアで、やはり立派な方だと思った。
 耳鼻科の小林助教授には父の声帯ポリープの手術をしていただいた。清水から出雲に来て入院中の身でありながら、父は大学病院を外出して私と代官町の呉竹寿司に食事に出かけた。翌日手術日、声帯が腫れて手術が延期になった。清水にいる母に私は電話で顛末を告げた。あきれていた。
 これらの先生方のかつての年よりも、今の私のほうが上回ってしまった。時の移ろいの機微を思うのはそうなのだが、同時に当時の先生方・職員の人達がいかに真面目にこの新しい大学の基礎を築こうと時間と労力を注いでいたのか、今の私にはわかる。
 同学年では青木君と意気投合。一年生の夏休みには宮崎の彼の実家を訪れ一泊。翌日、飛行機で青木君と宮崎から熊本へ。笹岡君を訪ねた。楽しい笹岡父の話を聞き、蚊帳を張った和室で寝かせてもらった。翌年には青木君が清水市に来て、二人で富士五湖をめぐるドライブに出かけた。石原君とは宍道湖北岸を探検ドライブ、さらには四国高松・金比羅宮まで。帰りの夜の中国山地越えでは車の調子が悪く不安であった。金さんとは大山にスキーへ。往復の車の中では物まねの指導を受けた。私の物まねが上手くないので(鈴木君はもっと自分を捨てて!)とのこと。上手くなくても良いと思った。久保田君はテニス部仲間。髪にパーマをかけ、赤い車に乗ったおしゃれマン。下宿が徒歩1分。毎日一緒に酒を飲んだ。だんだん酒が強くなっていった。徳光君はテニス部、ダブルスのパートナー。独特のユーモアある楽しい人。入部3ヶ月めで社会人トーナメントに出場して、奇跡的に一勝した。浜山公園の第2コートにて。安本君は荒っぽさが最初は気になったが、静岡県人同士で意気投合。車で出雲から静岡への帰省途中、安本君が運転し私が助手席で寝ている間に、中国自動車道で隣のトラックと競走していた。最後は相手の運転手に手を振っていた。やめてね。ポリクリ仲間は島田さん(安本夫人。冬はほっぺが赤い)、庄林君(見た目ではわからぬ優しい人)、新谷さん(ノート見せてくれた。先生の冗談まで書いてあった)、関山さん(頼りになるお兄さん)、妹尾君(立ち上げた水球部で一緒)。内尾君は現整形外科教授。横浜での学会で再会。笠間君とも横浜での学会で再会。内海君はギターを弾いてくれた。頂いた楽譜で、今でもギターを弾いている。塚崎君は空手部主将。代官町で良からぬ人に腕相撲で勝って気に入られたらしい。早口の大分弁は聴取困難(特に冗談を聞き取るのが困難。わかったふりして笑った)。満元君は故郷の奄美の島の生活を楽しく話してくれた。満面の笑顔、郷土愛にあふれていた。笹岡・久保田・安本君と玉造温泉長楽園の池のような露天風呂につかりに行った。裸で泳いだ。
 友島荘の人達。坂本さん(私の部屋でエレキギターを弾いてくれた)、鬼形さん(現医学部長。モスバーガーをご馳走してくれた)、黒須さん(都会派整形外科医。革のトレンチコート)。
 テニス部の人達。一期生;山田さん(テニスやろうよが合言葉)、粟津さん(短パンにハンカチを引っ掛けていた)、本村さん(スキーの名手。神戸ではご馳走になった)。二期生;岡田さん(赤いトレパンに白いポロシャツ、自転車で登場。左利きのキレのあるサーブ。私が新入生歓迎会で初めて泥酔したとき介抱してくれた)。三期生;小畠さん(バックのスライスを教えてもらった。質問をすれば、うーんそれはねー、とニコニコと答えてくれた)、申さん(優しさ(勉強の資料を頂いた)とすごい闘争心が混在。試合中、気持ちが爆発した。“何でやねん”と言っているようにも聞こえた)。四期生;塩谷さん(体軸のぶれないフォームは今でも参考になる。弱点はない。卒業後、福井市と神戸市でシングルス対戦するも勝てず。もう一回挑戦したい)、倉橋さん(倉橋さんのバイト先の海の家を訪ねた。カレーをご馳走してくれた。甘口・辛口の選択があり3分待てとのこと。ボンカレーの味に似ていた)。後輩の皆さん;太田君(ニコニコ、眼鏡)、菊池君、貝嶋君(九州の炭鉱の話)、福岡君(富士市出身。ピアノマン)、中谷君(智弁学園卒。高校野球で思い出す)、大岩君、天門君(横浜で再会)、泉君(清水に遊びに来てくれた)、弓削君、大宮君(いい人)。
 柔道部の人達。岩田さん(ニコニコ、名古屋弁)、茂本さん(重心の低い力強さ)、笹岡君(最高に強い柔道だが、相手がどんなに強くても負けない術も持つ。時に敵も味方も首をひねる内容のこともあったが、負けはしなかった)、吉岡君(サングラス、オールバック、もみ上げ。でも礼儀正しい)、真庭君(島根医大のエース。心技体共に充実)、川人君(柔道練習中でも、病気の話で議論)、山形君(背負い投げの切れ味最高)、加藤君(恐そうな外見。でも礼儀正しい)、大倉君、須田君(合宿時に、父上がアワビ・サザエ・地の魚を差し入れしてくれた)、諏訪君(くせもの柔道家。立って組み合ったまま絞め技をねらう)、加納君(スマートマン。見た目は柔道部ではない)、佐藤君(家庭教師のバイトを引き継いでくれた)、丸山君(丸い)、大田君(大きい)、白沢君、大西君、竹浦由香里さん(マネージャー。笹岡夫人。彼女が入学して間もない頃、体育館でバスケットのシュート練習をしていた)。
 4期生の岳野さんには現在、リウマチの症例でお世話になっている。9期生の大石真帆さんは私の家内(鈴木明子)の友人であり、横浜市大の整形外科医・竹内君の奥さん。
 その他、学食、売店、図書館,学生課の職員さん、町の食堂のご主人、大家さん、家庭教師先のご家族。語りつくせない。
 横浜での開業医としての今は島根医大での経験があってのこと。たくさんのチャンスを頂いた。なのにお礼の言葉も言わずに。本当は皆様に会って言葉を交わしたいが、たぶん叶わない事。(ありがとうございました。元気です。もう少しの間、がんばります)。
 現役の学生諸君は、休みを利用して実際に島根を見てまわると良い。美しい山・海・川・空に囲まれて、古い文化が残るこの土地のすみずみを訪れてみて。
 夜の日御碕に行ったことがある。夏なのに肌寒い風を感じた。満天の星空を灯台の光が掃く様にゆっくり回る。何も持っていなかったあの頃、何かを祈ったと思う。叶ったこともそうでないことも、40年前、島根医大生だった私。大好きな人達との思い出。懐かしさ。切なさ。ほのぼのとした温かさ。そして、感謝。


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